2006年元日早々、個人的に大変ショックなことがあった。タ~イムショック! などとふざけてる場合じゃない。物心ついてから今にいたるまでの30年以上もの長きにわたり、私はこともあろうに自分の故郷の村(正確には祖父母と父親の生家)の読み方を間違えていたのだ。んなアホな!
この写真を撮って、田舎にあるほとんど唯一自慢できる丹生大師のことを紹介しようとネットでいろいろ調べていたら、「にうたいし」と書いてある。ええ? 「にう」? 「にゅう」じゃなく? コイツ、間違えてるな、はは、と笑ってたら、笑われるのは私の方だった。どうやらホントに「にう」らしい。ガビーン。顔にモザイクをかけて、音声を変えてもらいたいくらい恥ずかしい気持ちで一杯だ。しかし、まだ半信半疑だったりする。
丹生というのは全国にある地名で珍しいものではない。丹(に)、つまり赤土を生み出す所という意味だ。そして読み方は「にう」と「にゅう」がある。どちらで変換しても「丹生」になる。「しょうぶ」も「あやめ」も「菖蒲」になるように。でも、しょうぶとあやめは別のものだ。にうとにゅうはどうなんだろう? 意外とどっちでも正解なんだろうか? だとしたら気が楽になるのだけど。もしかして、丹生大師だけが「にうだいし」で、地名としては「にゅう」なのかとも思う。なんか混乱してきた。
思い起こしてみれば確かにばあちゃんは昔から「にう」と言っていた。年寄りのことだし、三重弁でなまってはるんだなと、私の頭の中で勝手に「にゅう」と変換して聞いていた。ばあちゃん、疑ってごめんよ。でも今まであらたまって確認したことはなかったし、口で言うぶんにはどちらもほとんど同じように聞こえるから間違いを指摘されることもなかった。
それにしても2006年の1月1日から何もないところでつまづいて顔面から地面に落ちたような気分だ。2、3日寝込むかもしれない。
にうなんて、ピッチャー新浦以外に聞いたことないぞ。他には田舎の食堂で「めにう」と書かかれてる品書きが存在する可能性くらいがあるくらいのものだろう。
気を取り直して丹生大師の紹介をしよう。
元からこのあたりは霊験あらたかな土地だったようで、継体天皇の774年(奈良時代)に、弘法大師の師匠さんである謹操大徳が開いたとされている。水銀の産地として全国でも有名で、奈良の大仏などこの時代日本で作られた仏像などはほとんどがここで出た水銀を使ったらしい。空海がこの地を訪れたのが813年。伊勢神宮にお参りしたときたまたま(?)立ち寄り、おお、これがお師匠さんの開いた寺なのか、それでは自分も何かしなくてはと七堂伽藍なんかを建立したり、42歳のときの自画像を残したりしている。
弘法大師の像は大師堂に安置され本尊となっている。本堂などは三瀬左京の乱(1584年)など数回の争乱などで消失したものの、大師の像は不思議と戦火を逃れたという。現在残っている観音堂などは江戸時代に再建されたもので、写真の仁王門は1716年に建立されたものだ。それでも古くて風格がある。
丹生大師の正式名称は、女人高野山丹生山神宮寺成就院という。長くて覚えられない。近所の人はたいてい「お大師さん」と呼んでいる。一応の正式名称は「神宮寺」で、丹生大師と呼ばれるようになったのは江戸時代以降らしい。
丹生神社が隣接しているのだけど、このあたりの歴史はあまり知らない。明治の神仏分離令で今のような形になったのだろう。
丹生のこのあたりは水銀が採れた当時は大変な賑わいをみせ、「丹生千軒」と呼ばれたそうだ。うちの田舎のうちがある通りは和歌山別街道で、宿場町だった。父親が子供の頃はまだその面影がかなり残っていたらしい。今は少し古い家があるだけで、宿場町の雰囲気はない。伊勢商人発祥の地としても一部では有名だ。
こうして見てくると、なかなかに古い伝統と歴史のある村だと言えるだろう。侮り難し、丹生。にう……。
今からでも遅くないからにゅうに変えてもらえないかな。私の30数年の悔恨を取り戻すためだけに。無理か。にゅうでも合ってる気がするんだけどな。やっぱり間違いなのかな。
西郷どんの友達が西郷の名前を役所に登録するとき本名が思い出せなくて、確か隆盛だったはずと思って登録したら実はそれは西郷どんのお父さんの名前だったのに、「そいでよか」と言ってそのまま西郷隆盛を名乗ることにした西郷隆永を見習って、私も少々の読み間違いや言い間違いを気にしない心の大らかな人になりたいと思う。それが2006年最初の誓いとなった。