円頓寺の賑わいも今は昔で、かつての面影をわずかに残すばかり - 現身日和 【うつせみびより】

円頓寺の賑わいも今は昔で、かつての面影をわずかに残すばかり

五条橋と名古屋駅ビル




 盛り場という言葉を最近めっきり聞かなくなった。夜の盛り場をうろついていては駄目ですよみたいなことを今でも教師は生徒たちに言ったりするのだろうか。
 明治から戦前にかけて、名古屋の三大盛り場は、栄、大須、円頓寺(えんどうじ)だった。平成の今、円頓寺にかつての賑わいの面影を見つけることは難しい。一つの町にも浮き沈みがあるとはいえ、昔を知る人にとって過去の繁栄も、もはや幻のように感じているかもしれない。
 名古屋城の南西、名古屋駅との間に円頓寺商店街はある。地下鉄丸の内駅出口から西へ5、6分のところだ。名古屋駅から歩いても20分程度だろう。名古屋で最も歴史のある商店街を今訪れる人は少ない。大須商店街は時代に取り残されなかったのに、円頓寺商店街はどうして置いてけぼりにされてしまったのだろう。
 名古屋城が築城された翌1610年、家康は尾張の首府を清洲から名古屋に移すと宣言した。世に言う清洲越というやつだ。それまで清洲にあった武家の屋敷や町家、寺社や商店、町名までも、一切合切が清洲から名古屋に引っ越しをしてきた。数年の間に清洲6万人都市は事実上消滅し、「思いがけない名古屋ができて、花の清須は野となろう」 と唄われたまさにその通りとなったのだった。
 円頓寺界隈もそうやって作られた城下町の一角に当たる。
 熱田の湊から名古屋城下に物資を運ぶために掘られた堀川沿いには町屋や蔵が建ち並び、今も当時の面影を残している。四間道(しけみち)と呼ばれるその地区に関しては、近いうちにあらためて紹介したいと思っている。
 四間道散策
 円頓寺商店街は、その名の元となった円頓寺(えんどんじ)の門前町として発展していくことになる(当時は圓頓寺と表記した)。
 円頓寺が商店街となり、やがて名古屋西部の繁華街となっていったのは、明治中期以降(1890年代)のことだった。名古屋駅南の笹島に鉄道駅が開業し、周辺に工場が建つと、多くの人々が円頓寺に集まるようになった。まだ埋め立てられる前の江川(庄内用水の東井筋)沿いには市電が走り、道沿いには商店や飲食店、劇場や寄席、夜店や芸者置屋などが並び、町は江川から西へ西へと延びていった。
 1921年には名鉄瀬戸線の瀬戸~堀川間が開通し、名古屋西最大の繁華街として発展していく。市内では広小路、大須に次ぐ規模だったという。それが戦前まで続いた。
 それほど発展した円頓寺が戦争を挟んで急速にさびれていったのは何故だったのだろう。地理的に見れば、大須や栄の方が分が悪いにもかかわらずだ。
 一つには車の普及によって人の流れが変わってしまったというのがある。それに伴って市電が廃線になったのは痛手だった。名鉄瀬戸線も、堀川と土居下の間が廃止になってしまい、江川は埋め立てられ幹線道路となり、商店街は真っ二つに分断されてしまう。
 現在の円頓寺商店街は、名古屋の中でもほとんど忘れられたような存在となっている。存在は知っていても、かつての三大盛り場だったということを知っている人はあまり多くないかもしれない。近所以外の人で、大須へ行くように円頓寺へ行く人は少ない。
 ただ、近年は名古屋もようやく歴史的文化遺産を観光資源として活用していこうという姿勢を見せ始めているから、近くの四間道と共に見直されつつある。商店街も昔を夢見ることは無理でも、なんとか少しでも盛り返していこうという気運も見られるようだ。
 偶然か必然か、そんな折り、大林宣彦監督が円頓寺と四間道を舞台にした映画を撮るという話が持ち上がっている。それがもし実現すれば、ロケ地として県内外から注目を集めるようになるのは間違いない。そんな今だからこそ、円頓寺を歩いてみようというのが今回訪れた目的だった。たまたま、七夕祭り最終日に当たっていて、ちょうどいいタイミングでもあった。
※映画は『夢の川』というタイトルが発表されたものの、企画が流れて実現しなかった。

 今日から何回かに渡って、円頓寺と四間道を紹介していきたいと思う。一回目はまず円頓寺の前半からいってみよう。
 一枚目の写真は、堀川に架かる五条橋だ。円頓寺商店街の東入口にも相当する。
 もともとは清洲城の横にあった橋の名前で、清洲越のとき名前も移された。一部橋の材料も移築したようだ。
 現在の橋は昭和13年(1938年)に架け替えられたコンクリート製のものとなっている。それでもなかなか雰囲気のあるいい橋だ。
 橋のたもとには小さな祠がある。この地方特有の屋根神様というもので、民家の屋根にあったものをここに移したものだ。屋根神様については別の機会にあらためて書きたい。
 この路地裏を歩いていると、ふっと小学生のときの感覚が蘇る ~四間道2


五条橋から見る堀川の風景

 堀川は、福島正則が中心となって掘った運河のような川だ。というよりも、天下普請という名目で家康によって掘らされた。それは単なる労働力として使われたというだけでなく、豊臣恩顧の外様大名の財力を減らせるという狙いもあった。だから、堀川も福島正則が金を出して掘っている。城を築かされるとき、なんで自分たちが家康の息子のために金を出して城を築いてやらなければならないんだと泣き言を言っている。それを聞いた加藤清正は、文句があるなら国に帰って謀反の支度をすればよかろうと言ったのは有名な話だ。
 この少し前までは、家康も福島正則も加藤清正も、豊臣秀吉の家臣だった仲間だ。正則や清正は秀吉子飼いの家臣ということで家康とは立場が違うけど、関ヶ原の合戦では正則は豊臣家のために石田三成を討つべしと家康に上手く言いくるめられて、結果的に手柄をあげてしまったという経緯がある。家康から褒美として安芸広島49万8000石を与えられて、気づいたらいつの間にか家康の家臣になってしまっていた。なんか騙されたと思って愚痴の一つも言いたくなる気持ちは分かる。
 加藤清正はできた人物で、築城の名人として平和時にも生きていけたであろうけど、正則は治水の名手と言われながらも戦の人だった。関ヶ原以降はめっきり精彩を欠き、広島城を勝手に修繕したことをとがめられて、信濃川中島4万5,000石と10分の1に減封されてしまう。
 そんなことを思い出しながら堀川を眺めてみると、また違った思いが湧いてくるだろう。最近まで堀川は名古屋で一番汚い川と言われていた。今でもそうかもしれない。ただ、ここ最近、堀川浄化運動というのが盛んになって、以前と比べたらだいぶきれいにはなった。福島正則の苦労に報いるためにも、川遊びができるくらいきれいになればいいと思う。明治まではここで獲れた魚で作った甘露煮は一級品だったそうだ。



円頓寺七夕まつり

 商店街は江川線で分断されていることもあって、円頓寺商店街、円頓寺本町商店街、西円頓寺商店街と3つのブロックに分かれている。上の写真は、東の入り口だ。ここから西に約1キロのアーケード街が続く。
 商店街には「ありとある譬(たとえ)にも似ず三日の月」と染め抜かれたのれんがかかっている。1688年に、松尾芭蕉が長良川で鵜飼い見物をしたあと円頓寺に立ち寄って詠んだ句だ。



円頓寺七夕まつりの商店街

 予想以上の賑わいで、ちょっと驚いた。こんなに人が出てるとは思ってなかった。普段の円頓寺商店街は半ばシャッター通りと化しているというのが事前の情報だったので、想像とのギャップが大きすぎた。たくさんの屋台が立ち並び、人も大勢歩いていた。どうやら円頓寺商店街の七夕まつりというのは思った以上に有名なようだ。
 毎年7月の終わりから8月にかけての5日間行われていて、今年は7月30日から8月3日までだった。日曜日の最終日ということで、あの賑わいだったのだろう。
 53回目というからたいしたものだ。今年で戦後63年だから、終戦から10年後にはこういう商店街の祭りができるくらいには復興していたようだ。四間道あたりは空襲で焼けなかったというし、このあたりは部分的に戦前の古いものも残っている。戦中の商店街はどうだったのだろう。
 期間中は消防音楽隊のパレードや愛知女子校バトン部のパレード、阿波踊りやハワイアンダンスなど、さまざまなイベントが行われたようだ。そのときは人で溢れて身動きが取れないくらいなんだとか。



円頓寺商店街古い酒屋の看板

 シャッターが降りている店もけっこうあるものの、こういう古そうな店も残っている。この酒屋さんなどは店舗は改装された新しくなっていたけど、お茶屋さんなどは昔の佇まいのままだった。
 この日は店の人も前に出てきているし、人目も多くてちょっと写真が撮りづらかったというのがある。普段の円頓寺とはまるで状況が違うので、写真と撮るという目的なら祭りの日は避けた方がよかった。



円頓寺商店街路地の飲み屋街

 アーケードからちょっと外れて一本入った路地に小さな飲み屋街が形成されていた。地元では円頓寺銀座と呼ばれているらしい。
 地方には必ずといっていいほど何々銀座というのがある。それもまた昭和の名残だ。今や繁華街の代名詞は銀座ではなくなった。



愛知別院門前

 高田山専修寺愛知別院。1647年に丸の内に建立された寺で、1657年にこの地に移ってきた。当初は臨江山信行院と称していたという。1754年に名をあらため、最盛期はかなりの伽藍を持つ大きな寺だったようだ。尾張名所図会にも出ていて、ご開帳のときは大勢の参拝客が押し寄せたと書かれている。
 江戸時代に一度焼け、本堂その他は空襲で焼失した。山門と鐘楼は当時のものが残っている。



円頓寺商店街慶栄寺

 こちらはアーケードの中にある慶栄寺だ。門が閉まっていて、中に入ることはできなかった。
 1804年建立で、境内には聖徳太子を祀る太子堂があり、奈良元興寺五重塔の古材を使って建てられたそうだ。
 松涛庵は、足利義政が銀閣寺を建てたときに茶室として造らせたものを京都東山から移築したものだという。
 どちらも重要文化財クラスのものなんじゃないのか。そんな貴重なものがあるなら、ぜひ見てみたかった。ネットの情報を調べても境内の写真はなかったから、どうやら普段から一般公開してないようだ。



円頓寺商店街金比羅社

 曲がり角の細いところに、こそっとはまり込んでいる金比羅さん。
 名古屋城を築城したとき、三の丸の大道寺邸にあったもので、大国主命(オオクニヌシノミコト)を祀っている。冥界を守る出雲大社の神様だ。
 1859年にこの地に移された。



円頓寺門前

 これが商店街の名前にもなっている円頓寺だ。商店街や地名としては「えんどうじ」なのに、お寺の名前は「えんどんじ」という。
 1654年、普敬院日言上人が創建した寺で、もともとは広井村八軒屋敷(現在の国際センター付近)にあり、普敬院と称していた。
 1656年に京都立本寺から十界大曼荼羅の本尊を送られたときに長久山円頓寺(圓頓寺)と寺号を改めている。
 山門は唯一戦災を逃れた建物で、総ケヤキの門だそうだ。これは歴史の雰囲気がある。中の建物はどれも新しい。



円頓寺境内

 入って左手に長久稲荷大明神があり、その右手が本堂、お稲荷さんと本堂の間に鬼子母神堂がある。
 ここに祀られている鬼子母神像は、初代尾張藩主徳川義直の側室が懐妊したとき、名古屋城天守閣の棟木の余材で彫って寄進したものとされている。
 そのことから、のちに子授けや安産のお寺として知られるようになり、尾張徳川家との縁も深くなった。
 毎月18日は鬼子母神像が公開され、秋にはザクロの実が参拝者にも分けられるそうだ。



円頓寺商店街の風景

 吊しもので賑やかになってはいるけど、このあたりの風景に普段の円頓寺商店街の光景を垣間見るようだった。



円頓寺商店街と江川線

 円頓寺商店街のアーケードがいったん途切れて、円頓寺の交差点に出る。前の広い道が江川線で、上を名古屋高速が走っている。
 昔はここを市電が走り、両隣の道沿いに夜店などが並んでいた。古い白黒写真を見ても、今の円頓寺と結びつけるのは難しい。

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 江戸時代の四間道の頃から名古屋人は広い道路が好きだった ~四間道1

【アクセス】
 ・地下鉄東山線/鶴舞線「伏見駅」から徒歩約10分。
 ・JR他「名古屋駅」から徒歩約15分。
 

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2014-02-09 22:50 | from ローカルニュースの旅