幸心地区二つの寺社巡りで歴史の意外なつながりを知ることとなった - 現身日和 【うつせみびより】

幸心地区二つの寺社巡りで歴史の意外なつながりを知ることとなった

間黒神社入り口




 瀬古の神社仏閣巡りは、前回に続いて今回は間黒神社常雲寺を紹介します。
 国道19号線を挟んで東側だから、住所としては幸心になる。でもまあ、瀬古の散策をすれば一緒に回ることになるところなので、ひとまとめにしてしまおう。
 かつてこのあたりに山田一族の城、幸心城があったとされている。19号線沿いに城跡という地名が残っていたそうだけど、今はなくなった。詳しいことは分かっていない。
 戦国時代以前、現在の名古屋市北西部から瀬戸、長久手一帯は山田氏の支配する土地だった。歴史を辿ると、平安中期、清和源氏の流れを汲む源重宗が美濃で挙兵するも(1079年)、源義家に討たれて一族は尾張の山田郡に移り住むこととなった。そこで山田氏を名乗るようになったところから始まる。
 治承・寿永の乱(1180年)で、山田重満は源氏の源行家について墨俣川で戦い討ち死に。その息子、重忠は鎌倉幕府に山田庄の地頭に任命されて、正式にこの地を治めることになる。
 後鳥羽上皇に仕えていた山田重忠は1221年、上皇が鎌倉幕府倒幕の挙兵をするとそれに従い、尾張川の墨俣で幕府軍を迎え撃つこととなった。しかし、京軍は総崩れを起こし、重忠はひとり奮戦するも退却を余儀なくされ、京都まで逃げ延びた。
 生き残った重忠らは京都で藤原秀康、三浦胤義たちと最後の一戦をしようと京都御所の上皇の元に参じるも、門は閉ざされ、中に入れてもらえない。仕方なく東寺に立てこもったところに幕府軍の大軍がなだれ込んできて、ついに命運は尽きた。ここでも孤軍奮闘したものの、味方はほとんどがやられてしまって、嵯峨の般若寺山へ落ちのびて、最後は自害して果てた。
 首謀者の後鳥羽上皇は隠岐島に島流しとなり、結果的にこれが鎌倉幕府の地盤固めを進める手助けとなった。承久の乱の少し前に三代将軍源実朝が暗殺され、幕府の実権は執権の北条氏に移り、倒幕の失敗によって幕府による朝廷の管理が厳しくなったことで朝廷は徐々に力を失っていった。
 承久の乱なんて久々に聞いて懐かしいと思った人も多いだろうけど、日本史の教科書に出てくるような事件と関係のある人や土地が自分の身近にあったりするから、そういうところへ実際に行ってみると歴史の理解がより深まる。名古屋周辺というのは、戦国時代だけでなくそれ以前の歴史も面白いことを私も最近知った。
 前置きが長くなったけど、そろそろ間黒神社に話を戻そう。



間黒神社境内

 神社に入っていくと、なにやら大がかりな工事をしている。トラックも入って、古川に架かっている橋が壊されてかけている。何事だ。
 何をしてるのかよく分からなかったのだけど、ゆっくり参拝できるような雰囲気ではなかった。遠巻きに眺めつつ、写真だけ撮った。



古川に架かる橋

 横に回ってみる。どうやら工事は、橋そのものの架け替えではなく、欄干を付け替えるものだったようだ。老朽化して危ないということだろうか。
 この神社の中には古川(神戸川(こうどがわ))が流れていて、境内を南北に分断している。こういうふうに川が流れている神社はあまりない。何故こういう配置にしたのか、よく分からない。
 分からないといえば間黒神社の名前の由来もよく分からない。このあたりの地名でもないし、ネットで検索しても、ここと茨城県にあるものと2つしか存在しないようだ。読みは「まぐろ」神社だ。間が黒いってどういう意味だろう。
 一説によれば鎌倉時代創建というけど、尾張初代藩主徳川義直の時代に(1636年)に、この地区の鎮守を祀るために建てられたというのが実際のところのようだ。



間黒神社拝殿

 こちらが拝殿と本殿なのだろうけど、入って行きづらくて、外から眺めるにとどまった。
 工事が終わって平静を取り戻した頃に出直したい。



間黒神社本殿

 本殿あたりを横からのぞき見る。
 祭神は須佐之男命(スサノオ)で、その他、多紀理姫命、多岐津姫命、大山祇命、市杵島姫命、天照大御神が祀られている。
 境内社には白山社、金毘羅社、秋葉社、津島社があり、御嶽社がある。



常雲寺本堂

 次に訪れたのが、間黒神社からほど近いところにある常雲寺というお寺だ。
 ここは愛知四国の73番というのだけど、そんな霊場もあるのか。昨日紹介した石山寺は尾張四国観音で、愛知四国とはまた別だ。尾張西国だけでなく、尾張四国というのも別にあるらしい。気がつけば街中が霊場だらけだった。
 さすがにこんなところでお遍路さんの格好をしてる人は見ないけど、札所になってるから、御朱印をもらいに回っている人もいるのだろう。ただ無目的に歩くだけでは面白くないから、御朱印集めのために歩くというのは、老後の趣味としては悪くない。
 このお寺の由来や歴史はよく分からなかった。調べても情報がほとんど出てこない。



常雲寺

 分かったのは、曹洞宗のお寺だということくらいだ。誰がいつ開基したのかも調べがつかなかった。
 曹洞宗は、鎌倉時代に道元が宋に渡って持ち帰った教えで、道元自身は宗派を嫌ったものの、のちに禅宗に取り込まれて、その一派となった。
 鎌倉時代に臨済宗が武家政権に支持されたのと対照的に、地方豪族や一般に支持されて広まった。禅宗の庶民派ということで、今でも曹洞宗のお寺は多い。大本山は福井県の永平寺だ。
 曹洞宗の学校としては、愛知の地元なら愛知高校・中学や愛知学院がそうだし、豊川稲荷が曹洞宗という関係もあるのか、豊川高校もそうだ。全国区でいえば駒沢関連や東北福祉大なども曹洞宗の学校だ。



庚申堂

 見ざる、聞かざるがいる。三猿といえば日光東照宮で、こういう寺にいるというイメージはなかった。帰ってきてから勉強して、ようやく理由が分かった。今回はなんだか勉強っぽい内容になっているけど、あと少しおつき合いを。
 この堂は、庚申堂(こうしんどう)という名前で、青面金剛童子(しょうめんこんごうどうし)を本尊として祀ってある。
 庚申というのは中国道教の民間伝説の庚申待から来ている。人の頭、腹、足には三尸(さんし)の虫がいていつもその人間の悪事を見張っているという。庚申の日(干支の組み合わせの日で、帝釈天の縁日でもある)の夜、人間が寝ている間に天に昇って天帝に報告にいくということで、悪いことを報告されてしまうと寿命を縮められたり、死後地獄に落とされてしまうから、その日の夜はみんなで寄り集まって神様を祀り、寝ないで夜を明かす風習が生まれた。これを庚申待(こうしんまち)という。
 これを3年間、18回続けると記念に庚申塔を建てる習わしで、庚申塚とも呼ばれて、今でも各地に塔や地名として残っている。これが流行ったのが江戸時代で、村や地域単位で行ったことでその集団を庚申講と呼んでいた。
 どうして猿と結びついたかといえば、庚申信仰の申と猿との洒落のようなもので、庚申塔にはよく三猿が彫られるようになったところから来ている。
 三猿は日本の教えではなく、元々古くから世界中にあったものとされている。古代エジプトやローマにもあったというから古い。日本へは8世紀頃に天台宗の教えとして伝わったといわれている。有名になったのは、やはり日光東照宮の三猿からだろうと思う。
 仏教における庚申の本尊は青面金剛(帝釈天とも)なのに対して、神道では猿田彦命とされている。これも猿との連想だろう。
 ニニギノミコトが天孫降臨しようとしていたとき、地上で光り輝いて行く手を照らしていたのが国津神の猿田彦で、道先案内人としてのちに道祖神とも結びついている。
 仕事を終えた猿田彦は故郷の伊勢の五十鈴川へ帰り、松阪で漁をしているときに溺れ死んでしまう。
 倭姫命(ヤマトヒメノミコト)が天照大神を祀るのにふさわしい土地を探し歩いていたときに伊勢の五十鈴川を紹介したのが、猿田彦の子孫である大田命(おおたのみこと)で、一族は代々伊勢神宮の玉串大内人に任じられた。
 猿田彦神を祀った神社としては、伊勢神宮の近くにある猿田彦神社が有名だ。滋賀県の白鬚神社の祭神ともなっていて、そこから白鬚明神とも呼ばれている。
 常雲寺や間黒神社がある幸心という地名は、この庚申堂から来ているという説と、猿田彦神がこの地で鼎(かなえ)や竃(かまど)を作っていたことから幸神と呼ばれ、それが転じたという説がある。
 いずれにしても、いろんなことが意外なところでつながりを持っていて面白い。近所の寺社巡りと、篠島行きと、次に行く予定の日光がこうもつながってくると、何か作為的なものを感じたりもする。すべての歴史は直接的、間接的につながっているといえばそうだけど。



庚申堂

 三猿のはずだけど、堂の前には見ざると聞かざるしかいなかった。言わざるはどこにいたんだろう。
 この三猿像は、昭和8年に地元の人が寄進したものだそうだ。

 今後も神社仏閣や旧跡巡りを通して歴史の勉強をしていきたいと思う。
 

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コメント
非公開コメント

🙊は、🙈の下に居ますよ。

2017-07-13 16:52 | from -

再訪予定



 こんにちは。
 言わ猿は下にいるんですか。気づきませんでした。
 近々、間黒神社に再訪予定なので、そのとき寄って確認してみます。
 教えていただきありがとうございます。

2017-07-14 20:35 | from オオタ | Edit

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