近所に歴史あり、御畳奉行と行く瀬古の古寺社巡りツアー - 現身日和 【うつせみびより】

近所に歴史あり、御畳奉行と行く瀬古の古寺社巡りツアー

石山寺参道入り口

Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS



 守山区瀬古にある石山寺(いしやまじ)を訊ねてみた。表通りからも入れたようだけど、私はあえて裏道からアプローチした。民家の間の細い道を進んでいくと、四つ角に石山寺と彫られた石を見つけた。ここからすでに石山寺の敷地内が始まっているという印だろうか。進んでみると、右手に寺の入り口があって、その先には高牟神社があった。



石山寺入り口

「尾張西國第十三番 金剛廿一大師十六番 石山寺」とある。四国八十八ヶ所にちなんだ巡礼地が全国各地にあって、人々はそれらを巡り歩いてきた。現在でもそれは絶えない。尾張にもいくつかあったようだけど、歴史の中で衰退したり、戦争で焼けてしまったものもあっていつしかうやむやになっていたのを、戦後の昭和30年(1955年)にもう一度ちゃんと決め直そうということで作られたのが尾張西国三十三観音だった。天白区の1番一乗院から犬山の33番継鹿尾山寂光院までの33ヶ所に定められた。
 顔ぶれを見てみると、けっこうマイナーなところが多くて、私は5つしか行っていない。気がついたらほとんど行っていたなんてことにはなりそうにないから、制覇したければ意識的に回るしかない。
 ここを訪れたのは、瀬古を散策したからついでに寄ったというだけでなく、上の写真の山門が見たかったからというのが強かった。



石山寺山門

 ほっそりしてるから迫力には欠けるものの、優美さがあっていい。この山門は好きだ。これを見るためだけでも瀬古へ行く価値があると思う。
 この寺は、御畳奉行の日記で有名な朝日文左衛門がたびたび訪れた寺で、「鸚鵡籠中記(おうむろうちゅうき」にも何度か登場している。
 文左衛門の屋敷は、名古屋城から東に2キロほどの東区主税町(ちからまち)あたりにあって、そこから石山寺までは5キロくらいだから、当時としてみれば近場という感覚だったろうか。善光寺街道を通って矢田川を渡り、味鋺あたりで釣りをして、竜泉寺や大森の大森寺(だいしんじ)まで足を伸ばすこともあったようだ。
 朝日文左衛門の日記を読むと、筆まめだけが取り柄のダメ武士で、愛すべき人だったことが分かる。将軍綱吉の生類憐みの令が出されているのもおかまいなしに平気で毎日のように釣りを楽しみ、禁止されている芝居見物に変装して出かけたり、酒を飲み、美味しいものを食べ、茸狩りに出かけ、気が向けば博打をしたり、女を買ったり、気ままに日々を過ごしていた。何しろ仕事は月に3日くらい城に行けばいいだけなので、時間がある。給料もそこそこだから、遊んでるより他にすることがない。
 筆まめぶりは尋常ではなく、今でいうブログ中毒のようなものだ。食べたものから、身の回りの出来事、江戸での大きな事件や三面記事的なニュースネタ、藩でのスキャンダルや裏事情、季節の風物詩から芝居や花火大会の感想などなど、事細かに毎日27年間も書き続けていたからすごい。どうでもいいことばかりのようでありながら、江戸時代の武士の暮らしぶりがこれほどよく分かる日記は他にない。
 最後は酒好きがたたって肝臓を悪くして、45歳で死んでしまった。80歳くらいまで生きていたら、もっといろんなことが知れたのに、もったいないことをした。
 そんなことを思いながら石山寺を参拝するとまた違った思いを抱くんじゃないだろうか。



石山寺境内

 境内の庭園はきれいに整備されていて気持ちがいい。
 奥に見えているのが本堂で、左手には観音堂がある。
 鎌倉時代の1245年前後、道円の開基とされている。
 江戸時代に入ってから、尾張二代目藩主・徳川光友が再建するものの、明治24年の濃尾地震で倒壊。翌年再建されるも、第二次大戦の名古屋空襲で燃えてしまう。ただし、観音堂と山門は焼け残って現在に至っている。本堂は平成8年に再建されたもので、ごく新しい。
 本尊は阿弥陀如来で、薬師如来、釈迦如来像とともに鎌倉初期の恵心僧都作とされている。



石山寺観音堂

 こちらが古い観音堂。古いといっても、明治に再建されたものだろうから、そこまで古くない。
 この左手には地蔵さんが並んでいて、奥は竹林になっている。



山門

 最後にもう一枚、山門を撮る。
 よく見ると屋根にシャチが乗っている。



高牟神社

 山門から左に向かって少し歩くと高牟神社に着く。ほとんど隣り合わせといっていいくらいだから、昔は石山寺と一体化していたのかもしれない。
「延喜式」にある春日部高牟神社の候補のひとつで、もしそうだとすれば創建は平安時代以前ということになる。ただ、個人的な完食としてはここが延喜式の高牟神社ではないような気がするのだけど、実際はどうなのだろう。
 高牟神社というと千種区にある同じ名前の神社の方がよく知られている。あちらは、尾張を支配していた物部氏(もののべし)が武器を納めた倉があった場所に建てられたということだけど、こちらとの関係はよく分からない。名東区の高針にも同じ名前の神社がある。



天満宮の牛

 拝殿の前に牛がいて、戸惑う。ここは天満宮なのか? と。
 狛犬は鳥居の外にいるだけで、境内にはいない。
 ここは高見という称号をもらっていて、江戸時代までは高見天神と呼ばれていたそうだ。今は別名瀬古天神ともいう。どうして天神というのか不思議なのだけど、「本国帳」には従3位高牟天神、「尾張本国内神明帳」には従3位上高見天神とあることから、最初の頃から天神様と関係があったことが分かる。
 祭神は高牟神社ということでタカミムスビ(高皇産霊命)となっている。もともとそうだったのか、あとからそうなったのかは分からない。相殿で菅原道真が祀られている。
 山田次郎重忠という人が奉納した菅原道真の画というのがあり、江戸時代にはどういうわけかそれが一般家庭のものとなっていて、明治になってから神社と話し合いで半年ごとに持ち合うことになったらしい。ただし、それは戦争の時焼けてしまって今はないという。



本殿の中

 タカミムスビというのはよく分からない神様で、「古事記」では高御産巣日神(タカミムスビノカミ)として天地創造に関わった神として登場するものの、「日本書紀」ではちらりとしか出てこない。
 アマテラス(天照大神)の息子の天忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)と結婚したのがタカミムスビの娘栲幡千千姫命(タクハタチヂヒメノミコト)で、その間に生まれた子が天孫降臨したニニギ(瓊瓊杵尊)という。
 天御中主神、神皇産霊神とともに性別もなく、人間界からは姿を隠している神(独神)ということで、その実像はベールに包まれている。
 そもそも誰がそういう神様をこの地に祀ろうとしたのか、詳しいことは分かっていないようだ。いつの間にか、天神さんに主役が入れ替わってしまったようなところがある。
 伊邪那岐命、素戔嗚命、天照皇大神、大山祇命、菊理媛命も祀られている。
 社殿は一度900年に再建され、1767年には矢田川が決壊して水の底に沈んでいる。1825年にも修理と造営が行われ、昭和20年(1945年)の空襲で社殿は焼け落ちてしまった。現在のものは戦後、昭和36年に建て直されたものだ。



手水舎

 京都や奈良まで行かなくても、近くに歴史のある神社仏閣はあるものだ。うちの近所と奈良時代や平安時代というのはイメージが結びつかないのだけど、その頃からここにも人が住んでいて、都と同じ長さの歴史があるのだということを再認識した。
 石山寺はいいお寺だし、高牟神社とセットでオススメしたい。ご近所さんは一度訪ねていってみてください。
 朝日文左衛門が遊び歩いていたところを辿る散策というのも楽しいかもしれない。川で釣りをして、寺巡りをして、ご馳走を食べて、芝居を見に行って、酒を飲んで、博打をして、家に帰って日記を書いて寝る。彼が生きたのは、関ヶ原の戦いから100年後のことだ。平和っていいような悪いような、どっちなんだろうとちょっと考えた。
 

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2009-03-11 18:50 | from -

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