現身日和 【うつせみびより】

写真ノート<38> ---写真の伝わらなさ

生まれたてのヒヨコ

OLYMPUS E-M5 + OLYMPUS 60mm F2.8 MACRO



 写真の伝わらなさ加減というのは一体どれくらいのものなんだろうと考えることがある。正確に伝わっていると感じることは少なくて、もしかしたら全然伝わっていないんじゃないかと思うことさえある。
 それはフォトコンの選者さんのコメントに感じることでもあるのだけど、一番伝わらなかったと感じたのは去年参加した御苗場でのことだった。評価されるされないとは別に、こちらの意図がまるで伝わっていなかったように感じてもどかしかった。自分が在廊していなかったせいもあるのだけど、どれくらいの人があの展示の意味を理解してくれていたのだろう。壁一面に道ばた写真を貼り付けて、中央に写真集「a life」を置いた展示は、壁の写真を見てほしかったというよりも写真集「a life」を見てほしかったのだった。壁の写真は「a life」の中に登場する人たちが暮らしている世界で、背景にすぎなかった。舞台でいえば書き割りのようなものだ。壁の写真をざっと見て、写真集を手にしなかった人にはそれが伝わるはずもなかった。写真集を手に取った人も、多くは展示の意図に気づかなかったのではないだろうか。まさかあそこまで伝わらないものだとは思っておらず、展示というものを安易に考えすぎていた。
 あの展示方法が間違っていたとは自分では考えていないのだけど、伝えたいことを伝えることができなかったという現実がある以上、あの展示は失敗だったといわざるをえない。ひとりよがりだったといってもいい。人に見てもらおうという前提で展示するならば、まずは何よりも分かりやすくなければいけないことを思い知ったのだった。

 私たちは人の写真を見るとき、それが分かりやすいものであれ分かりづらいものであれ、理解したつもりになっている。なるほどそういうことねと。そのとき撮影者の意図がどの程度自分に理解できているかまで考えをめぐらせることはほとんどない。撮影者の意図がどうであろうと自分が理解できさえすればそれでいいと考えがちだ。
 けど、撮影者の側からして本当にそれでいいのだろうか。鑑賞者の無理解や誤解をそのまま放置しておくだけで何の手も打たずあきらめてしまっていいのかどうか。人に理解してもらうための努力をもっとしなければいけないと感じている。
 私のように何のグループにも所属せずに写真をやっている人間にとって、自分の写真がどう理解されているかを知る方法は少ない。それこそフォトコンに入選してコメントでももらわない限り分からないといってもいい。あとはブログのコメントや友だちとの会話の中にいくらかのヒントがあるくらいだ。写真サークルに参加でもすればそのあたりのことでいい面があるのだろうとは思いつつ、みんなで仲良く楽しく写真を撮りたい気持ちは持ち合わせていない。
 どんな写真であれ、こちらの意図を完全に伝えるのは難しい。鑑賞者の理解を100パーセントコントロールするなどということは不可能だ。だからといって最初から投げ出して解釈を相手に委ねるのは無責任に思える。何かを伝えたいからこそ撮った写真を人に見せるわけで、伝えようとする意志において最大限誠実でなければならないのは当然といえば当然のことだ。

 こちらの意図を正しく知ってもらうには何をどうすればいいのか。ひとつには主題を明確にすることだろう。あれもこれもと欲張りすぎるといいことはない。
 写真はただ漠然と写すだけでは、すべての要素が均等に写ってしまう。主役も脇役も端役も同列に並んでしまうと、見る人間の意識は散漫になる。それは緊張感のない悪い写真だ。
 撮り手の目は見たい物や意識して見ているものに焦点が合っているから、そこに意識が向いて、それ以外は意識から外れて見えているのに見ていないといったことになりがちだ。写真における主観と客観のずれはそこで起こってくる。
 それを防ぐためには、主題となる要素をできるだけ絞り込むことだ。本当に伝えたいことに一点集中させることでようやく撮り手の意志が鑑賞者に伝わる。まずはそこをないがしろにしては話が始まらない。その上で、その先のことに関しては鑑賞者に委ねるしかない部分となる。人は写真の中の主題にだけ注目するわけではなく、背景とか色とか光とか脇に写っているものも見るし、そこで何かを感じることもある。ときに撮り手の思惑を超えて。
 写真集なら、物語性が大切だし、写真展の展示なら主題を明瞭にする必要がある。
 何よりもまず、撮り手自身が自分のテーマをはっきり自覚していなければならないことは今更いうまでもない。結局、何がいいたいのと問われたときに即答できる答えを持っていなければ、それは写真で伝える伝えない以前の問題ということになる。

 撮り手は過小評価されることだけではなく、過大評価されることも恐れなければならない。結果オーライで高評価を得て喜んでいる場合ではない。過不足なく正確に意図を伝えることを目的とすべきだ。つまり、自分の写真をできる限りコントロールしなければならない。自分の写真をコントロールできないようでは鑑賞者の感情や理解をコントロールすることはままらない。
 なぜ過大評価がいけないかというと、自分の意図を超えてしまうことに関してはコントロールが難しくなるからだ。評価に自分を合わせようと無理に背伸びをすると自分を見失う。過大評価された写真はある種の失敗だと思っておいた方がいい。
 過小評価は単純に力不足だから、足りない分は鍛錬で補うしかない。
 写真は意図しないものが写ったりするのが面白いというのは確かにそうなのだけど、それを偶然頼みの言い訳に使ってはいけない。まずは自分の写真をコントロール下に置かないと。それでもなお、撮影者の意志を超えて写り込んでしまうことに価値がある。神の手というのはそういうことだ。

 何を撮りたいのか。何を表現したいのか。何を伝えたいのか。写真で何がしたいのか。もう一度といわず、何度でも自分自身に問いかけてみなければいけない。答えがまだ見つかっていなくても、答えを探し続ける必要はある。
 撮り手と被写体と受け手が完璧な調和を見せたとき、初めて写真は幸せなものとなる。撮り手の被写体への理解、受け手の写真への理解、受け手の被写体への理解と撮り手の受け手への理解。写真は三者を結びつけた内側にあるということを忘れないようにしたい。美しい正三角形が理想型だ。
 

スポンサーリンク

関連記事ページ

道行き風景 ---少し過去の風景

店裏と洗濯物

OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4



 写真で時間を巻き戻してみると、過ぎ去った月日の多さを思い知ることになる。今年も残り100日だとか。
 何もない日々を愛おしく思えるようになったのはいつの頃からだろう。それは、無条件に明日が約束されているわけではないことを知ったときだろうか。
 何もないような日常の風景を写すようになったのはここ5年くらいのことだ。その日にあった出来事を淡々と書き連ねる日記のように日々を写していこうと思う。たとえその写真がすべて残らず消えてしまうとしても、あるかないか分からない未来への贈り物には違いないのだ。



街並み風景




ショーウィンドーの衣装




空き地の野良猫




未来坂




植田川沿い風景




小さな溜め池




銭湯の煙突のある風景




河川敷の打ちっ放し




集合住宅の配水塔




アパートの2階の洗濯物

 

スポンサーリンク

関連記事ページ

今月のフォトコンについて

フォトテクフォトコン

OLYMPUS E-M5 + OLYMPUS 60mm F2.8 MACRO



「フォトテクニックデジタル 2016年10月号」のノンジャンル部門で「ヒマワリと十字架」が入選。
「フォトテク」のノンジャンルはおととし、去年とよく入っていたのだけど、選者がテラウチマサトさんに代わってからさっぱり入れなくなっていたから、久々の入選となった。清水哲朗さん時代と比べると選ばれる作品の傾向もがらりと変わっていた。個人的にはシミテツさんと相性が良かったから残念ではあるのだけど、テラウチさんもフジコンのフォトブック部門で初めて選んでくれた恩人のひとりなので、テラウチさんのときにも入らないといけないと思っていた。
 これは愛知牧場で撮った一枚だ。愛知牧場のそばには南山教会があるのだけど、この十字架は牧場内の小高い丘の上にあるもので、創設者の尾関誠一氏が牧場を作るとき苦労した際にその祈りの場として建てたものだそうだ。
 ここ5年くらい毎年十字架を入れた構図で撮っていて、年によっていいときと悪いときがある。ヒマワリの咲き具合や位置関係によって上手くいくときもあればいかないときもある。この一枚は去年の夏に撮ったものだ。今年はあまりよくなかった。



ヒマワリ写真別仕上げ

 コメントのアドバイスにもう少し青みを加えたらどうだろうというのがあったので、試しにやってみた。テラウチ氏がどんな色味をイメージしていたのかは分からないのだけど、こういう仕上げもありかなと思った。むしろ、もっと極端に青緑色にしてもいいかもしれない。
 ただ、どうして私がヒマワリと十字架の組み合わせで撮っているかというと、日本の敗戦と夏の悲しみをイメージしているからというのがある。終戦は8月15日で、空襲にあわなかった町ではヒマワリが咲いていただろうし、十字架は原爆が落とされた長崎を連想させる。そうでなくても、夏の強烈な光にはどこか悲しみの気配のようなものがあって、それが私の中では黄色いイメージなのだ。だからこそ、この写真は黄色でなくてはいけなかった。自分の頭の中にある夏の黄色を出すことが一番重要で、それが完成した写真の色となった。



TEKKENフォトコン

「CAPA 2016年10月号」のTEKKENフォトコンで「養老といえば」が佳作。
 TEKKENは毎月決まったテーマがあって、鉄道専門に撮っているわけではない私としては応募できる月が限られてくる。この月のテーマは駅名標だった。駅名標を狙って撮ることはまずないのだけど、そういえば養老駅のひょうたんがあったなと思い出して応募してみたのだった。
 鉄道関係のフォトコンで最大の目標は、TAMRONの鉄道フォトコンに入選することだ。恩義を感じている広田のおやじさんと直ちゃん(矢野直美)に表彰式で会うにはなんとか入選しなければいけないのだけど、5年くらい連続で落ちている。あのフォトコンは必ずしも鉄ちゃんだけのものではないから私でもチャンスはあると思うのだけど、いまだに入れずにいる。ふたりが審査員交代になる前に一度でいいから入りたい。そのためには、もう少し本腰を入れて鉄道撮影をする必要がある。
 

スポンサーリンク

関連記事ページ